管理人プロフィール

基本情報

  • ニックネーム:おくまり
  • 生年月日:1984年6月
  • 子供:小学生の息子1人
  • 趣味:銭湯、美容、バドミントン
  • 好きなミュージシャン:ブルーノ・マーズ
  • 好きな海外ドラマ:メンタリスト

はじめまして!WEBマーケティング学習中のシンママ:おくまりです。
管理人プロフィールページにお越しいただきありがとうございます。
ここでは、手取り20万以下の会社員でシングルマザーの私がこれまでどんな経歴や背景で、なぜWEBマーケティングを学ぼうと思ったのかのきっかけをお話ししていきます。

幼少期〜思春期:両親の無計画貧乏&対人面コンプレックスに悩む

私は北陸地方の都市部から外れた、郊外の市営住宅で生まれ育ちました。10歳まではそこで育ち、貧乏ながらに楽しく過ごしていました。自身の家族のこと以外何も知らない、完全に物知らずな田舎娘だったんです。

私が10歳の年に、両親は車で50分くらい離れた遠い土地に家を建てました。それから、自身が成長して大きくなるにつれて、両親についてあれ?と疑問に思うことが増えていきました。

  • お金がないのに、なんで家建てるの!?
  • お金に困ると、親戚に借金をしていたのがわかった
  • お金がなくて、家の車も買えない
  • 家のお金がないのに、子供の私の貯金などない
  • 子(私と妹)とのコミュニケーションが希薄で、躾ができていない
  • 友達のご両親の人当たりの良さが全くなくて、恥ずかしい

私は親とのコミュニケーションもろくにできていなかったので、友達関係ともうまくいくはずもなく、嫌われることもありました。(そんな私と今でも友人関係でいてくれる友達には感謝しかありません)
だんだん人から「どんな風に見られてるか」ということを、非常に気にするようになってきました。

そして、いつしか両親のお金に対するリテラシーの低さや対人面が大きいコンプレックスになってしまいました。今思えば、ないものねだりというか、自分勝手な娘だったなと思います。
ですが、当時の視野の狭い私は、こんな風な大人になりたくない、と実の親に対して反面教師のような意識を持ったまま育ちました。

高校時代:恩師との出会い・躾の大切さ・真剣に物事に取組むことの素晴らしさを知る

先ほどにもあった通り、貧乏な家庭だったので、大学に行くという選択肢は私の中には1ミリもありませんでした。わずかの余裕もなかったため、奨学金を払いながら働くっていう未来すら浮かびませんでした。幸か不幸か、やりたいことも志も何も持ち合わせていませんでしたし、卒業後は就職するつもりで商業高校に進みました。

高校生活は、びっくりするほど友人や環境に馴染めず、孤立することが多くて辛かったです。「なんでこんな高校入ったんだろう」と毎日後悔していました。

そんな時、2年生の時に出会った部活動の恩師の存在はとてつもなくデカかったです。

部活動は中学から続けていたバドミントン部に所属していました。
1年生の時は、バドミントンも知らない、スポーツをしたことがないような先生が、「早く帰りたいから早く終わろう」みたいなスタンスの、どうでもいい顧問の先生でした。そんな環境で誰も頑張る人なんていませんでした。毎日の練習は惰性でした。

ところがそんな腐り切った部活動に、強烈な一筋の光が差し込みました。
2年生の時に、新しく赴任された体育の先生がバドミントン部の顧問の先生となり、腐った空気の部活が一気に変わることになりました。
一気に部活の雰囲気を変える過程で、私の性根のダメなところもすぐに見抜かれ、真剣に叱ってくださり、人生初の人格矯正をするきっかけを与えていただきました。この時点でこの恩師に出会えたことは、私にとって人生の宝そのものだったと感じます。

恩師はバドミントンの専門の先生ではなかったのですが、部活の雰囲気を変えるだけではなく、ものすごい熱意での練習に打ち込み、私たちをサポートくださいました。「頭で負けてる学校の奴らにバドミントンで勝て!」と毎日のように言われ続け、高校3年生の地区大会では初優勝の功績を残せました。この時、仲間とチームでやり切った達成感はひとしおでした。

これが私の初めて真剣に物事に打ち込み、やり切って達成感を味わった経験になり、今でも良い思い出です。

なんでこんな高校に入ったんだと後悔していた私ですが、部活動で得た達成感だけではなく、PCの使い方やタイピング、エクセル・ワード、簿記、電卓など、自分にとっての大きな財産になったと思っています。

新社会人:楽しい社会人生活からの母の余命宣告でどん底を味わう

超真面目な高校生活から一転、社会人デビューしてすぐに髪を染めたり、化粧をするようになりました。入社した会社は県内有数の優良企業で、新人社員研修は朝早くから夜まで続き、難しい内容ばかりだったのですが、同じ釜の飯を食べながら頑張る同期がいたのでそれなりに楽しかったです。当時は研修の内容の濃さと難しさに気持ちがやられていましたが、今ではそこまで頑張らないと現場に出してもらえない、しっかりした会社だったと思えます。それが私の社会人の土台になっているとも思えますし、そんな環境を準備してもらえて感謝しています。

いざ支店に配属されて、実務をしてみると、なんと仕事の覚える内容が難しいこと。
と、かなり凹みました。なかなか仕事も覚えられないし、周りの先輩方はレベル高いし、追いつける気もしないし、全然仕事ができなくて迷惑ばかり掛けていました。この時、研修や勉強ばかり頑張っても仕事は覚えられないんだな、ということが身に染みてわかりました。

母の病気が発覚

そんな中、1年が過ぎた時、母の病気が発覚しました。当時、「左手があまり動かないから腱鞘炎かな?」みたいな感じで、病気が判る前は病院に行きたがらずに、対処療法を探し歩いていた母でした。とうとう”左手が動かなくなる”という衝撃的なことになってしまいました。

慌てて病院へ行ったところ、すでにステージ4の肺がんであっさり「余命1年宣告」されてしまいました。リンパ節に転移してしまい、転移した腫瘍が脳にまで及んでいて、簡単に「手術はできません」と言われてしまいました。左手が動かなくなった理由は脳の腫瘍だったのです。病気が発覚した時は、さすがにショックで「なんでうちの母が!」と泣きわめきました。

それからはどんどん弱っていく母親との生活・病院への付き添いなどの日々でした。その後、1年半後に亡くなり、私は母に何もしてあげられなかったです。正直、もう20年前の話になるので、嫌な記憶として封印しているのか、あまり思い出せないんです。邪険に反抗してばっかりで、親孝行が全くできなかったことを今でも悔やんでいます。

22歳〜27歳:人生の絶頂からストレス生活・エネルギー消費のループ

同年代はほとんどが社会人生活か大学生を満喫している中、22歳で結婚し、寿退社しました。相手はひとまわり近く年上で、私の両親へのコンプレックスを解消してくれるような、「学歴も仕事も超しっかりした人」でした。その上、どうせ私なんて他に結婚したいと思ってくれる人は今後現れないだろう。私自身早く死んじゃうかもしれないし。
そんな風に自分を納得させて、結婚して、彼の両親と同居することになりました。私の両親へのコンプレックスだったことがかなり解消できた気持ちでした。

歪み始めた、幸せの時間

最初のうちは幸せ絶頂でしたが、楽しかったのが永遠に続くわけでもなく、いろいろなところに歪みが出始めました。

夫のメンタルダウンや、夫と夫の両親の不仲が浮き彫りになり、幾度となく衝突をしていました。それに巻き込まれることも多々あり、私自身もストレスからくる(顔が歪むほどの)親知らずの炎症に悩まされていました。さらに当時は、洗濯以外の主な家事をこなしながらのフルタイム勤務だったので、日々疲弊してとても体力がどんどんすり減ってしまい、私のエネルギーは消費の一途をたどっていました。

そんなストレスフルな家庭に帰りたくなくて、仕事場に休日出勤しに行ったり、好きなバドミントンに打ち込んだり、何とかしてストレス発散をさせて紛らわせていました。贅沢な結婚式や新婚旅行をさせてもらったんだし(もちろん自分のお金は出した上で)、嫌なことがあっても、自分が我慢すれば良いと思っていたのです。

28歳〜32歳:長男の妊娠・出産・父の死去・夫のモラハラ・ストレスMAXの日々

喜びと不安が入り混じる妊娠・出産

28歳の時、特に子作りを目標としていなかったのですが、思わぬ子宝に恵まれました。夫と夫の両親との衝突の原因の中に「内孫がまだできない」という話題もあったので、妊娠がわかった時は、かなり歓迎ムードでした。

しかし、家事の分担などは大して変わらず、フルタイム勤務も続けていたので、安定期に入るまではかなりしんどかったのが正直なところでした。横になりたくても、横になれない家風だったのが、辛くてしんどかったです。ついに出血が出て流産しかけたこともあり、産院の先生が機転を効かせてくださり、安定期まで約2週間は入院させてもらえることになりました。無事に安定期を迎え、それからはすごく元気な妊婦生活を送れました。

疑問のある妊娠生活でしたが、これまた私が我慢すれば良いのだ、と思ってしまっていました。

出産後は1年育休をいただき、自身の母親は亡くなっていて頼れないので、姑の協力をいただきながら、床上げまでは不安な1ヶ月を過ごしました。文句を言われながらも何とか1ヶ月過ぎて、やっと自分で動けるようになってからは、なるべく夫の両親に頼らないように頼らないように、という風に考えるようになっていきました。
夫はほぼ仕事で家にいませんでした。ワンオペって言葉を当時知りませんでしたが、完全にワンオペだったなって思います。

崩れ始める理想の結婚像

息子が2歳の頃、父親も2年の闘病の末亡くなってしまい、私の生まれ育った家庭は、私と妹のみになってしまいました。

それからだんだん息子が大きくなるにつれて、ある時この家にいることの窮屈さが増していることに気づきました。その頃から夫のモラハラ気質が激しくなっていきました。夫が正しくて、私はため息をつかれる程バカでダメな奴。私が反発すると、謝るまで怒ったまま。精神的にキツくなってきて、寝つきも悪くなっていきました。

息子は息子で泣くことが多くなってきて、3歳半になっても私の足から離れようとしない、後追いしてくるなど、精神的に不安定なんじゃないか?と思うようになりました。また、他の子と比べて、出来ることが極端に少ないんじゃないか、とも。
新しいことを息子にさせようと思っても、大人のペースがメインの家に、子どものペースを巻き込む力は私には皆無で、このままだと発達も遅れるんじゃないか、との不安でいっぱいでした。

ちょうどその時は市の3歳半健診があり、思い切って息子の情緒不安定なことや発達の不安を相談してみました。

この健診での相談がきっかけで、家族に内緒で、いろんな相談機関に相談しに行くことになります。他にも周りの人からも「それ、普通じゃないよ」と言われたのが、大きかったです。理想と思っていた結婚がどんどん崩れていき、もう私が我慢すれば済むというフェーズはとっくに越えていました。

33歳〜35歳:離婚決意・調停・発達支援への相談で安定の日々

離婚への決意

「離婚してほしい」と言って、モラハラ夫が立場の弱い私に対して快く了承するわけがありません。世間体もあるだろうし、全力で阻止してくるのが目に見えていました。私は「逃げなきゃ」の一心で、家を出る準備と離婚調停の準備をしていました。

ところが、その時の私に財力などもなく、誰かに頼るしか逃げる手段はありませんでした。両親もいないので、頼る相手がいない。唯一交流のあった親戚の家に一時的に避難させてもらいました。1週間近く友人の実家にもお世話になりました。この時、ようやく「もう探さないから、実家に戻ればいい」ということ弁護士に言ってきたので、平穏な実家暮らしがスタートしました。

取り戻した精神的安定

そこからは、離婚調停は2年で成立、息子の発達の相談は4年かかりました。ようやく試行錯誤して子どもと安定した暮らしができています。

心配していた発達の遅れも、支援センターの先生方のアドバイスと、子どものやる気のおかげで何とか普通のクラスへ進学しても問題なさそうでした。
本当にこの時に支えてくれた親戚や友人の家族、支援センターの先生方には頭が上がらない、感謝の気持ちでいっぱいです。

36歳〜現在:自立した人生を模索する日々、ネット上で出会った最強のメンター

この頃からは、生活はしていけるけど、常に収支がギリギリなので豊かに生活できているわけではないし、子どもの習い事や将来に掛かるお金、自身の老後の生活費など、蓄えが何もできてないことに、一抹の不安を覚えました。しかも、新型コロナが流行し出した時期でもあり、先が見えない将来への不安が大きくなってきました。

そこで、また誰か再婚相手を探したい気持ちになったのですが、

「いや待てよ自分。」

ふと、また同じことになるのは目に見えてない?と思ったのです。誰かを好きになって、将来のことを考えられる相手に巡り合ったとしても、「自立して、自分の経済力がある程度なければまた同じ末路になっちゃうよ?」ということに気づきました。

会社員として自力で稼ぐことの難しさ

それからは、子供の手もかからなくなったこともあり、自力で今の職場でもっと稼げないかを考えました。結婚してから勤めていた会社では、製造業の一般事務だったのですが、「総合職になって稼ぎたい」と伝えました。
すぐにではないですが、たまたま、調達部門の総合職の課長クラスの人が突然会社を辞めるという事件があり、そのポストに未経験の私が抜擢されました。未経験の職種でいきなり総合職で、しかも課長がやっていたポジション・・「できるのか?」の不安もありましたが、「今やるしかない!」とスタートしました。

この時、これまでは考えられない規模の案件が舞い込むこともあり、今までの業務の常識も覆りました。

  • 手配のやり方から抜本的に変革すること
  • 成果が求められる「コストダウン」の目標

が課せられ、会社では外部からコストダウンの講師を招き、活動を行いました。もちろん交渉などもやったことがなかったので、講師の方からアドバイスをいただきながら、かなりの手探りで相談しながらの奮闘しました。
その成果は、インフレで値段が上がっている情勢にも関わらず、2年目で2千万円ほどのコストダウンの成果を出すことができました。このことはかなり評価されて、自身でも満足する結果でした。

しかし、収入面での不満は解消されませんでした。私は小学生の子どもを学童に預けている関係上、どれだけ頑張っても月のMAX残業は40時間程度しかできませんでした。これまで多くても20時間だったので、正直体力的にもかなりしんどかったです。しかも、それだけ働いても手取りは25万円もいかないという現実に、ショックを受けました。普通の仕事量になると、手取りは20万もいきません。成果は出せている実感ややりがいも感じることもありましたが、次のことがずっと頭によぎります。

  • 周りのやる気なく働いている大卒の人たちより手取り少ないのでは
  • 他部署と比べての仕事量に対しての収入の温度差しか感じない

こんな風に考えると、やる気を持ってやっている分、何だかやるせない気持ちでいっぱいでした。
転職するにも年齢面で行き先もないし、高卒の私にはアシスタント系の仕事しか募集職種がありません。この会社でこのまま10年後、20年後働いているとしても、状況は変わないだろうし、私は愚痴しか言ってない、つまらない人間になってるんじゃないだろうか。と焦りばかりが募りました。

SNSで見つけた希望の光

そんな状況が変わらない現状に嫌気を感じながらSNSばかり眺めていると、ひときわ眩しい女性が出てきました。オーダーメイドスーツブランドのRe:museを経営されている、勝友美さんです。
失敗を恐れて過去を引きずって、そんな現状を変えたくて稼ごうとしても稼げなくて悶々としている私には眩しくて仕方ない存在でした。

この人は誰?何でこんなに受け答えがしっかりしていて、自信たっぷりで、素敵なの?無い物ねだりみたいな感じですが、どんどん魅力に引き込まれました。
勝さんの動画ばっかり追いかけているうちに、YouTube配信でのオンラインサロンの説明動画を見て、「マインドとWEBと金融を学べるオンラインサロン」を経営されていることを知りました。

その時にご説明されていた内容で私の心に一番響いたのは、

「人生は選択の積み重ねです。今までの選んできた言葉や選択で今ができている。これからもいろんなことを選択していく過程で、勝さんはじめ講師の方の考え方を学べば、より良い人生選択ができるはず」

というお話でした。この言葉は衝撃でした。

今の自分は、自分がこれまで選んできた言葉や選択でできているのだ

という事実。消去法や妥協でしか選んでこなかった人生は、起きてきた出来事に一喜一憂していただけではないか?結果が出ても評価されていないのは、自分のこれまでの言葉や行動の選択が間違っていたのかもしれない。このまま、こんな私に明るい未来などあるわけがなくて、自身の口から出てくる文句は、これまでの選択をしてきた自分に言っているのと同じだということに、ハッとしました。

人生最大のチャレンジ

このサロンの素晴らしさは、知識ゼロ・スキルゼロでも基礎から徐々に学べること。例えば、得られる内容はこんなことです。

  • 人格を矯正してくれること
  • WEBで人生のレバレッジをかけられること
  • 金融リテラシーを高められること

サロンに入って自分の生活や何かが変わることに漠然と恐れていた私ですが、だんだん学ぶことが楽しくなってきて、いつも見ている世界が違って見えてくるようになりました。この環境でもありがたいと思っていた矢先、WEBマーケッターの青木先生が弟子募集されるという情報が入ってきました。

青木先生は、総合WEBマーケッターとして日本の最前線でトップを継続的に走り続けている方で、お弟子さんを増やして「残すべき日本の企業を勝たせる」という、目先の利益ではない壮大な目標を持っていらっしゃいます。

そんなスペシャリストの方から、1年でスキル0からでもWEBマーケットを学べるスクールが期間・人数限定で募集されていました。

「そんなこと言って、WEBって怪しいんじゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
オンラインサロンに半年加入していた限り、全く怪しくないし、逆に真っ当すぎる!と断言できます。
「地に足をつけて、正しい努力を重ねれば、誰でも再現性を持って稼げるようになる」との青木先生の力強い言葉に嘘偽りは感じませんし、スクール卒業生の実績として、先輩方は大勢の方がご活躍中です。
65万円という高額のスクールでしたが、これはスキルも学歴もない私が挑戦できる最後のチャンスだと思い、飛び込みました。

このブログでは、私の成長記録として次のことを目指して発信していきます。

手取20万以下のシンママがWEBマーケッターとして
<目標>
1年目は月30万円を稼ぎ、2年目は独立して50万円を稼ぐこと。

<その先の理想未来>
人生の選択肢を自分で選択できて、周りの人も豊かにできる未来をつくる。

サイトコンセプトこんにちは!おくまりです。 ブログコンセプト記事にお越しいただきありがとうございます。 今回は、私がこちらのブログサイトで届けたい未来とその想いをお伝えします。...

 

私のようにシンママさんで、誰かに依存しやすかったり、スキルや知識がなくてこの先が不安な方に向けて、私がWEBマーケットを学び奮闘している情報を現在進行形で発信できればと思っています!
そのうちご覧になっている方への勇気づけや、WEBを学ぶ道筋となれたら嬉しく思っています。有言実行できているか、まずは定期的に覗きにきていただけるととても嬉しいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。